日々の記録

メモ代わりにも使ってます

バナジー&デュフロ「貧乏人の経済学」第四章要約

 40歳にして6児の母である未亡人シャンタラマさんの子供のうち、年長の三人は少なくとも8年生までは学校に通ったが、次の二人は中退している。それは父親の死が原因かと思われたが、実はシャンタラマさんにはそれなりの稼ぎがあり、子供を学校に通わせる余裕はあった。原因は子供が学校に行きたがらないからであった。

 世界各地で学校教育へのアクセスは容易であるものの、子供が学校に行きたがらないこと、親が学校に行かせられないことなどを理由に、欠席率は14-50%を示している。

 こうした失敗は政府主導型教育推進政策の失敗であり、学校教育を終えた人材に対する需要が不足していることを指摘する声もある。

 しかし、シャンタラマさんの場合、彼女の住む州の州都はIT産業が盛んなバンガロールであり、需要が不足していたとは考え難い。では問題はどこにあるのか。

 

需要供給戦争

 

 教育政策の議論の核は、政府が教育に介入すべきか、あるいは介入のやり方が分かっているのか、であり、この議論を分ける境界線は教育介入主義者にあたる援助楽観主義者と自由放任主義者を謳う援助悲観主義者とのあいだの境界線でもある。

 ここでワラーというインドで「調達人」を示す言葉を用いて二つの立場を定義する。一つは、「学校の供給」を重視する人々の「供給ワラー」である。この立場がもっとも明確に示されたのは2000年の国連ミレニアム開発目標MDG)である。MDGの二番目と三番目はそれぞれ、「2015年までにすべての子供が男女の区別なく初等教育の全課程を修了できるようにする」こと、「2005年までに可能な限り、初等・中等教育で男女格差を解消し、2015年までにすべての教育レベルで男女格差を解消する」こととしている。ユニセフの調査では1999年から2005年にかけて初等教育への就学率が大幅に伸びたことが判明している。中等教育でも通学コストはずっと高いのにもかかわらず、伸びが見られる。

 しかし、子供を学校に入れるのが重要であるとは言っても、教える内容や質が悪くては学校に来ても仕方がない。ところが、世界銀行が2002年と2003年に行った教師の世界無断欠勤調査では幾つかの途上国の教師が平均して5日の1日休んでいることが分かった。さらに悪いことに、インドの教育NGOプラサムの、年次教育状況報告(ASER)のための教育内容に関する調査では、学校に通う子供たちが、およそ学校に通わず親の仕事の手伝いをしているような子供たちよりも、読解能力において低い能力しか持たないことが明らかにした。国民会議派の主導者の一人、アルワリア氏は謙虚にこの結果を受け入れたが、タミール・ナドゥ州政府では結果を認めたがないほどだった。しかも、そのために再確認のテストまで行ったが、結果は同じであった。学校教育に意味はないのであろうか。

 

需要ワラーの言い分

 

 はっきりとした需要がなければいくら教育を供給しても無意味と主張する、イースタリーら批評家たちを「需要ワラー」と呼ぶことにする。彼らからしたら、上述の結果は、学校の供給だけでは問題が解決されないという自分たちの言い分の良い証左となった。つまり、原因は教育の便益が低いために親が教育の質に関心を持てないからだというのである。需要ワラー的に見れば、もし家庭が労働力需要に敏感であるとしたら、教育政策は意味を持たず、教育を受けた労働力に対するニーズのみが教育投資に影響を及ぼす。言い換えれば、教育は投資の一種にすぎないのである。彼らの世界観では親が関心があるのは子供の将来的な稼ぎである。

 もちろん、この視点は大事である。ただ見落としてはいけないことは、他にも沢山ある。例えば、子供への鷹揚さとか期待とかといったものも教育投資の鍵を握る。こうした親の気まぐれから子供を守るために義務教育が必要になるわけであるが、義務教育を実施できるほど国家が強くない場合も多々あり、その場合の新しい政策ツールとして条件付き補助金が注目を集めている。

 

条件付き補助金制度の風変わりな歴史

 

 元ボストン大学経済学部教授サンチャゴ・レヴィは、1994年から2000年までのあいだ、メキシコ財務省副大臣として、いくつか別個のプログラムで構成された複雑な福祉制度の改革を任されていた。彼は生活保護費の受領を人的資本への投資と結びつけることで、現在使われているお金を健康で教育の行き届いた世代を育てることに活かせば、短期だけでなく長期にわたる貧困の根絶を実現できると信じていた。これを発端として、「紐付き」補助金プログラムであるプログレッサが構想された。これは子供たちが規則正しく学校に通い、家庭が予防的ヘルスケアを実施することを条件として家庭にお金を与えるという、初の条件付き補助金プログラムである。

 サンチャゴ・レヴィはランダム化実験を用いてこの政策の効果を検証し、この政策が中等教育の就学率を大幅にあげる効果があることを実証した。

 レヴィは二つの伝統を生み出した。①条件付き補助金制度の世界的拡大、②補助金制度導入の効果測定でのランダム化実験の一般化、である。

 マラウイでの実験はプログレッサの条件が無意味であることを証明した。補助金効果はあったものの、条件の有無で就学率の効果の差がなかったのだ。つまり、親に学校に行かせるよう強制する必要はなく、財政的援助さえあればいいことを示したのである。

 マラウイで金銭援助が効果がもたらした理由は、家計の負担を所得移転により緩和したことなどが考えられる。とにかく、収入そのものが教育に関する投資を決定する際に問題となることが明らかになった。このことから、親の収入に格差があることが前提にある以上、市場に任せているだけでは、すべての子供に出自に関わらず能力に応じた教育を受けさせることはできない。教育を安上がりにするような供給重視の介入政策が求められるのである。

 

トップダウン型の教育政策は機能するのか

 

 こうした市場介入は実現可能なのか?「エコノミスト 南の貧困と戦う」ではイースタリーはアフリカにおける教育への投資はこれらの国々の発展の助けにはなっていないと主張している。

 インドネシアスハルトが学校建設活動を決定した(INPRES)事例では、この政策の時期の世代の賃金が上の世代と比較してかなり高かったことがわかっている。

 もう一つの古典的なトップダウン型の教育政策の例としての義務教育。1968年、台湾では9年間の通学が義務化。結果として、学校教育のみならず、雇用や子供の死亡率の改善にも大きな効果を挙げた。

 さらに、どんなに些細な教育でも役に立つという結果が出ている。

 このように、二極化した論争は的外れである。需要も供給もどちら必要。仕事があれば教育を受ける方法を自力で見つけるかもしれないが、トップダウン的に与えられる学校教育から受ける後押しも重要な意味を持つ。

 しかし、質の問題はなお残る。これはトップダウン型教育政策の弊害とうけとめられがちであるが、果たして需要重視の方法なら改善されるのだろうか。需要主導型戦略の代表例である私立の学校の例を見てみる。

 

私立学校

 

 インドの教育権法では政府が市民に私立学校に通うためのバウチャーを支給する。世界中の低所得の熱心な親たちは生活を切り詰めてでも子供を私立の学校に通わせようとする。

 私立学校は大抵の場合、公立学校よりもうまく機能する。教師の無断欠勤も8%ほど公立より改善されており、子供の成績も良い。

 一般的に私立に通う学生と公立に通う学生の学力格差は、経済的な差異に着目した学力格差よりも10倍ほど大きい。つまり、私立に通う子供は裕福だから成績がいいということは、たしかにその理由もあるかもしれないが、それ以上に私立自体が子供に好影響を与えている。

 ただし、私立学校に通う効果を市場介入の効果と比較すると、そこまで効果を上げていない。

 

ブラサム対私立学校

 

 ブラサムが行ったボランティア中心の教育方法が私立学校よりも成果を挙げている。

 教育が何を実現するのかという期待の特異さが問題を歪めている。

 

期待の呪い

 

幻のS字曲線

 

 一年間教育を受けることで増える収入は概ね年数に比例している。しかし、親たちは初等教育より中等教育を、中等教育より高等教育の方が、一年通わすごとに増える将来収益が大きいと考えている、

 このため、子供に均等にお金を注ぎ込むことより、一番出来のいい子供に投資を集中させる傾向が生まれるのである。なぜなら親にとって初等教育の効果は低くみえるので、ある子供をできる限りの段階まで進学させる方が有意義なのである。

 幻のS字曲線を親が描くために一人の子供に資源が集中する構造が生まれてしまうのである。

 

エリート主義的な学校制度

 

 エリート偏向は教育制度全体に蔓延している。例えば、子供を「最高」と「最低」に分けた学校では、「最低」のクラスに配属された教師は教壇に立たなくなってしまった。

 低い階層の親は、自分の子供にも期待を持つことができず、初めから投げやりになりがちである。

 子供のカーストを知らされた場合と知らされてない場合とで子供の評価を教師にさせたところ、カーストを知らされた教師は低カーストの子供に能力と関わりなく低い評価を与えるようになる。

 社会心理学者のクロード・スティールの「ステレオタイプの脅威」の研究もこの思い込みの社会的影響を実証している。

 

なぜ学校は失敗するのか

 

 決められた教育方法や指導要領の消化にもっぱら専念しなくてはならず、教師に裁量がない。金持ちの子供が通う学校ほど子供の能力をよく観察するが、貧乏な人々の学区ではそのような余裕はない。

 非現実的な目標と悲観的な期待、そして教師への間違ったインセインティブが組みあわさることで、学校制度はすべての人にしっかりとした技能のセットを与えるということと、才能を見つけるということの二つの任務に失敗している。

 

教育の再設計

 

 イスラエル初等教育、アメリカのチャータースクール、マダガスカルドミニカ共和国の実験を例に、上記の問題を低コストかつ無理のない形で解決する方法を提案している。

 結びに筆者はこう述べている。「「こんな生徒がほしい」と自分たちが思っているような生徒ではなく、現在実際に抱えている生徒に貢献すべきだと学校が認識することこそ、すべての子供に機会を与える第一歩なのです」と。